今回はYou TubeにBUMP OF CHICKENの「メーデー」を弾き語りで投稿しました。
いつも通り、メーデーの歌詞について考えていこうと思います。
メーデーとは「助けに来て」を意味する、無線電話で使用される救難信号の言葉です。
映画とかで「こちら〇〇!メーデー!メーデー!!」みたいな緊迫するシーンがあったり、なかったり。
そして、藤くんはこの曲を作る時に「音楽で人と繋がることとはどういうことなのか」という考えを強くイメージしていたとのこと。
リスナーとライブなどを通して、「繋がる」ということは言葉にするとどういうことなのか。
これも踏まえて歌詞を見ていきましょう!
歌詞解釈 聞かなくても伝わる思い
君に嫌われた君の 沈黙が聴こえた
君の目の前に居るのに 遠くから聴こえた
発信源を探したら 辿り着いた水溜り
これが人の心なら 深さなど解らない
冒頭の歌詞
藤くんはライブ中でもお客さんの事をよく見ています。
「笑っている人も沢山いるけど、中には泣いて聴いている人もいたり、その一人ひとりに話を聞いていきたいけど、それは難しい。」
という風なことを過去に言っていました。
「君の沈黙が聴こえた」っていうのは実際には聞くことが出来ないけど、みんなが何かしら抱えている思いを感じ取った自分を表現しているのだと思います。
それはきっと心の中の深い所、だから目の前で涙を流しているのに遠いのです。
呼ばれたのが 僕でも僕じゃないとしても
どうでもいい事だろう 問題は別にあるんだ
抱えたものに耐えきれず、助けを求める人が確かに目の前にいる。
僕(BUMP OF CHICKEN)に救いを求めて、ここに来てくれているのだろうか。
はたまた別の人が救ってくれる力を持っているのかもしれない。
しかし、少なからず今、目の前にいる人は確かに何かを訴えかけている、直接救えなくてもいい、何かできることはあるはずだ。
問題は君でも、君に嫌われた君でもなく、僕でもなく、他の誰かでもない。
続いてはサビの歌詞。
痛みは違えど、心は近づく
息は持つだろうか 深い心の底まで
君が沈めた君を 見つけるまで潜るつもりさ
苦しさと比例して 僕らは近付ける
再び呼吸をする時は 君と一緒に
BUMP OF CHICKENの曲は人間の弱い部分や葛藤、苦しい思いを代弁し、支え、優しく背中を押してくれるものが沢山あります。
時には的確に言われすぎて聞きたくなくなるくらいに寄り添ってくるです。
必死で君の沈めた君へ届くように曲を作ってくるのです。
これだけ人の痛みに触れてくる曲を作れるのは、作詞をする藤くんがあなたに刺さった痛みと似た経験しているからだと思います。
その苦しさが増えるにつれてBUMPの曲と出会い、様々な痛みを理解してもらえる=近づいた
ということになるのではないでしょうか。
僕は君とは違うから痛みの種類は違うかもしれない、でも、似たものは確かに抱え、それでも生きている。
ここの「再び呼吸をする時は 君と一緒に」の部分は
君に嫌われた君を救えた時は形は違えど、僕と同じ様に水溜りの外へ飛び出した事になるんじゃないかな、と解釈してます。
その痛みは僕と似ている、でもあなただけのもの
僕もまた同じ様に 沈黙を聴かれた
君もまた同じ様に飛び込んでくれるなら
口付けを預け合おう 無くさずに持っていこう
君に嫌われた君へ 代わりに届けるよ
BUMPの曲を聴いて、あなたの心が痛むのなら、それは藤くんの心の底も知ってしまった、ということになります。
それでも、曲を聴いてくれるならこっちも君の痛みを受け止めよう、そして、その痛みを言葉を変えてまた、君に届けよう。
「君が嫌いな君」も全て引っくるめて、君で良いんだよと、どうにかして曲を届けようとしてくれます。
同じ様な痛みを抱えているけど、僕は今の自分を抱えて生きていけている、だったらそれは君にもできるって伝えられるはずだ。
「口付け」という言葉が出てきていますが、これはおそらく、愛とかではなくて、水中で苦しんでいる君へ届ける、「少しの力」=空気(酸素?)みたいなモノの比喩表現だと思います。
ただこの酸素は君が曲を聴いてくれたことで生まれた、小さな力なのです。
僕はただ、君の力を届けるお手伝いをしているだけなのです。
これがBUMP OF CHICKENの音楽で繋がるという事の本当の意味なのかもしれません。
あくまで僕は君の言葉を借りて、また君に僕の言葉と共に返しただけ。
その言葉を聴いて、君が一歩を踏み出した時、それは君自身が君を連れ出したことになるんだ、というほんの一瞬のコミュニケーションをこの曲で表しているのではないかと思います。
メーデーという曲自体で人の心に寄り添おうをしているのではなく、作った曲全てがいつか君の言葉の代弁になる時が来る。
ただそのどれもが結局は君から生まれた「力」なんだ、と伝えたいんじゃないかと自分は思っています。
誰もが違う生き物 他人同士だから
寂しさを知った時は 温もりに気付けるんだ
僕と君は他人同士、別々の体、お互いに冷たい水の底にいるからこそ、手を取り合った時に温かさに気付くことができる、一人では生きていけない、それで良いんだと伝えてくれています。
人の痛みを伝えるのは覚悟が必要
勇気はあるだろうか 一度心覗いたら
君が隠した痛み ひとつ残らず知ってしまうよ
傷付ける代わりに 同じだけ傷付こう
分かち合えるもんじゃないのなら 二倍あればいい
傷付いた心を代弁し、代わりに届けるということは責任があります。
自分の痛みを曲にすることで逆に傷付く人がいるかも知れません。
しかし、その逆も然り、苦しんでいる人と出会い、その痛みを知ったからこそできる曲もあると思います。
その人の痛みはその人にしか解らない、でも、解ろうとすることはできる。
あなたの立場になって、同じくらい傷付いて言葉にすればきっと君にも他の似た誰かにも届くはずだ。
受け取って、受け取られて、それの繰り返しがBUMP OF CHICKENの楽曲制作の源なのかもしれません。
メーデーを送っていたのは、、、
怖いのさ 僕も君も
自分を見るのも見せるのも 或いは誰かを覗くのも
でも 精一杯送っていた 沈めた自分から
祈るようなメーデー
人の痛みを覗くのは怖い。
でも、怖いということは君もどこかでそれを感じているから怖いのです。
辿っていけば、それは君が君自身に送っていた「メーデー」、救難信号を知らない内に受け取っていたのです。
「祈る様なメーデー」、願わないのです、自分で自分に助けを願うなんてことは思っていても出来ません。
「あぁ、誰か助けて」と知らない内に自分に「祈った」のです。
君を連れ出すのはこの唄ではない
響く救難信号 深い心の片隅
こんなところにいたの 側においで 逃げなくていいよ
触れた発信源に 届けるよ 口付け
君から預かってきたんだよ
勇気はあるだろうか 一度手を繋いだら
離さないまま外まで 連れていくよ 信じていいよ
息は持つだろうか 眩しい心の外まで
再び呼吸をする時は 君と一緒に
ラストのサビの前半部分、とても強気な歌詞です。
それは当たり前、僕は君からの言葉を預かってきただけなんだ、怖がらくていい、君は君のままでいいんだと、僕は届けるよ。
そして後半のサビ。
BUMP OF CHICKENはきっとこれからも色んな痛みを経験し、受けて取って、曲を作り続け、届け続ける、それを繰り返します。
これでもかと言わんばかりに発信を続けてくるでしょう。
そして、いつかその曲のどれかが君に変わって言葉を君に届けてくれる時、一歩を踏み出す勇気を渡せる時、心の外まで連れていく時を作ってやる!というBUMP OF CHICKENのとてつもない強い意志をこの歌詞で感じます。
しかし、何度も言いますが、それは全て君の言葉、僕はただ君に変わって届けているだけ。
全て君の力で眩しい心の外まで行くことが出来ているんだ。
だから、再び水中から出る時(呼吸をする時)は君に嫌われた君は君と一緒なのです。
終わりに
今回はBUMP OF CHICKENのメーデーの歌詞を自分なりに解釈してみました。
BUMPが音楽を通じて、リスナーとコミュニケーションを取るというのはあなたの人生にただ曲を添えるだけというイメージで生まれているのだと僕は理解しています。
バスケのシュートの時の左手くらいの存在なのかもしれない、失礼過ぎかもしれない。
なんともBUMPらしい歌詞といえばそうなのですが、複雑過ぎて途中で解釈を投げ出したくなるくらいにグルグル回る歌詞ですね笑
長い記事になりましたが、解釈するのにこれだけの文章がいるくらいBUMPの歌詞は深いのです。
最後までお読み頂きありがとうございました!
ではまた!
ino
魂込めて歌いました!:良ければお聞きください。
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